晴れ時々雷雨のち快晴。
寒いね。
ところで、
ボッキングはグレイテストショーマンを見に行った。
とても、感動的であった。
舐めていた。たかが、歌。
しかし、見終わった後のなんとも形容しがたい心の暖かさ。
人の幸せを見るのはこんなにも幸せなことなのだろうか。
帰り道、ホテルに女の子を連れ込むことに成功したであろう男を見て、同じような気分になった。
グレイテストショーマン上映中、3つのことが気にかかってしまった。
一つ目はもちろんポップコーンのことである。私はいつも、映画を見る時寝ないようにモンスターエナジーを胃に入れてから入る。
ポップコーンはもちろん買って入る。
ポップコーンなしの映画館ならば行く意味はない。
そこで、キャラメルのMを注文したボッキングは愚の骨頂であった。
ボッキングの感覚的にキャラメルのポップコーンは不発が多い。
自分にも甘い奴が多いのだ。
奥歯に食い込む不発のポップコーンという遊戯王カードにリニューアルしてはどうだろう。
3連発で不発をくらい奥歯にダメージを蓄積した時思わずボッキングも歌い出しそうになった。
二つ目は、ミュージカルという特性に違和感を感じた。楽しい時はもちろん、萎えている時、悔しい時、辛い時も歌い続ける役者さんを見て、こいつは嬉しいのかつらいのかどっちなのだと困惑をさせられたものだ。
ボッキングは萎えた時はもちろん歌わない。
萎えた時はボッキングのボッキングとしての威厳が失われる時である。
3つ目はストーリー構成である。多くの映画がそうであるが、話に波を作ることが必要である。グレイテストショーマンも波があった。
成功 失敗 再成功。
さながら最高の三次関数。
ボッキングも1度目の失敗から這い上がって成功した主人公を見て、涙を流したものだ。
しかし、どうであろう。この物語が抑揚のない一次関数的な成功物語であったら。
常にハッピーハッピーな映画はあるだろうか。ミスもなく、人の死もなく、批判も風刺もない映画は存在するのだろうか。
もし存在したとしてそれは楽しいのか。
このことを考えると、視聴者はドラマに対して失敗を求めていると言っても過言ではないのではないか。
視聴者は三次関数のスキームを想定しているがために、1回目の失敗を待つのだ。
これを現実に置き換えてみよう。
今までの人生で、何かうまく行った、そこでイキって失敗して、その失敗から学び最初の成功より良くなるという経験はすくなからずあるはずだ。
つまり、失敗しても次の成功が待っているから潰れている暇はないということだ。
失敗ありがとう。
もし、私が銀行に就職したら、それが最初の成功である。そして、いずれくる出向を食らった時、ボッキングは言うだろう。
出向上等!出向に感謝!どん底心地よいと。
そんなボッキングは不幸を、次の幸せの糧と捉えて、しごき続けるのであった。